昭和47年10月23日 朝の御理解



  御理解 第53節
 『信心すれば眼に見えるおかげより 眼に見えぬおかげが多いぞ知ったおかげより知らぬおかげが多いいぞ、後で考えて、あれもおかげであった、是もおかげであったと云う事が、解る様になる、そうなれば本当の信者じゃ。』

 本当の信者と、本当の信者を目指すと言う事ですね。本当の信者を目指さにゃいけません。偽の信者であったり、偽者の信者であってはならない。本当にやはり本当のおかげを受けて、やはり現して行かねばなりません。そこで本当の信者を目指すと言う事は、いわゆる信心すれば眼に見えるおかげより眼に見えぬおかげが多いと、仰っとる、信心すればと言う所に焦点を置いて聞いて頂きたいと思う。
 信心すれば眼に見えるおかげより眼に見えぬおかげが多い、二代金光さま四神様のお言葉の中に、眼に見える所ばかり大切にして、眼に見えない所を、お粗末にするからおかげに成りませんと言った様な、言うなら、私が頂いて居ります、神仙お書きに成って居られる、なんですけれど、ね。四神様のお言葉として、言わば目に見える所は大事にするけれども、めに見えない所、言うなら人前だけは立派な事を、言うたりしたりするけれども人が見てなかったら其処ん所を、お粗末にすると言う意味なんです。
 ですから信心すればとはね、金光様の御信心はそう信心だと思う。眼に見える所も眼に見えない所も同じ、言うなれば神様が観てござる世界 神様が御承知の世界、そこに生き抜く事が信心だと私は何時も申しますがね。眼に見える所、眼に見えない所、ね、いわゆる神様が分かれば分かる程、言うなら何処へ居っても神様の御守護を受けておるんだ 神様が見てござるんだ聞いてござるんだと、言う事を信ずると言う事がです、此処では信心すればと言う事そう言う信心。
 人は見ておろうが見ておるまいが、神様が見ておいでだから、神様が聞いておいでであるからと信ずる、其処を四神様は、眼に見える所ばかりを大切にして、眼に見えない所おを粗末にするから、おかげにならぬと教えられた、おかげにならぬから、どうですか彼もおかげであった、此れもおかげであったと、言う様な素晴らしい世界に住む事は出来ない、彼もおかげであった、此れもおかげであったと言う事は、まあ言うならあの事もこの事も、過去の事も現在自分が頂いておるこの事柄も。
 それを難儀の様に見えて、あの時に本当に困った事だと思うておったけれども、後々になって見たら、それがおかげになって来て初めて気が付く。彼も御神意だった御神愛だったと分る、現在持っておるその難儀はやはり難儀の様に見える、だから過去も現在も、一切の事柄が、彼もおかげであった此れもおかげであったと言う事が分かる様になると、本当の信者じゃとこう仰るのですから、やっぱ本当の信者とはね一切がおかげであると、分からして頂けれる事、又真実そうなんだからだから。
 そう言う素晴らしい事を実感として分からして頂く事の為にです、いわゆる信心すればと言う此処に教えられる、信心をしなければいけん、此処でおっしゃる所の信心すればと言う事は、眼に見える所又は眼に見えない所、此処では眼に見えるおかげより眼に見えぬおかげが多いと仰る。だからその眼に見えぬ所のおかげをおかげを気付かせてもろうてと言う事はです、此処で教祖が教えられる信心すればと言う信心でなからなければいけん。だから拝みさえすりゃよい参ってさえおりゃよい、と言う信心ではです。
 彼もおかげであった此れももおかげであったと言う様な事が分からない訳です、何時迄経っても困った事は困った事 難儀な事は難儀な事としか頂けん。眼に見えるおかげより眼に見えぬおかげの方が多い、その為には眼に見える所よりも眼に見えぬ所を大事にして行くと言う信心。ね。昨夜田主丸の共励会から皆さん帰って来られまして、徹たちが帰るまで皆さん帰るのを待って、皆さん見送って頂いて、それからで御座いましたからだいぶ遅くなりましてね、それで皆さんが例によって御用をしてくれました。
 昨日は何か知らんが一生懸命、信心の話しをさせて頂いたけれども、足揉みの事を忘れてしもうて、本当に信心話と云う事は、いわゆる好きな話しをすると云う事は、( ? )の好きな話を相手は受け入れてくれる、相手が眠ったりするなら話しはそれで終わるんですけれどね。あの忘れたごとしてから足を揉みながら、お話しを聞いてもらうんですが、一生懸命話さしてもらった、その話しの中で私は、こんな話をさせて頂きました。段々合楽教会が大きくなって来る。
 言うなら大きなおかげを頂いて来た、ちょっと前を考えて見ると、五年前の開教式の時に、此処のお広前が大体一杯になった、それで椛目の時には椛目のお広前が一杯じゃったが、広うなったら広うなったでやっぱり一杯だったね、と。そしてもう五年後には又あんな大きな会堂が出来たらやっぱり会堂も一杯になった。考えてみるとそれだけ合楽の信心は躍進に躍進を続けておると言う、印だと言う話しをした、こう別に信者さんが増えておる様な感じではないけれども。
 実際にそんなら御大祭でも奉祭させて頂いてみると、初めて分からして頂く事はやはり五年間の間にやはり躍進に躍進をとげておる、その姿があの様なお祭りに表れておる。そう言う風にこの、例えば教会の会堂が大きくなれば大きくなるだけ、信者が増えて行くと言う様なおかげが最近私が感じる事は、私の祈りの内容が非常に大きくなったと言う事、もう初めの間ね 私が皆さんに聞いて頂いておった様にもう兎に角ね。
 日本中の事をお願いしたり世界中の事をお願いしたり 実感のない願いならせんがよか、そらもう天皇陛下皇后陛下の事迄お願いをする、それは教団の事もお願いをする、隣近所、村内の事もお願いをする。と言うてです、実感の無い物をね祈っった所で、それは神様に嘘を言うのも同然だ。そこで自分が今、切実に願わなければおられない事、御祈念の内容にしなければおられない事を、実感をもって言うなら御祈念をしなければならない、拝ましてもらわなければならない、神様に通はしないとこう。
 私自身もだからそうだった所が是はもう実感としてです、私は最近もう本当に世界の隅々の事まで祈らにゃ居られんのです、もう未開の国と言うですかねまあだ只食べると言う事だけに一生懸命、しかも何時かテレビで見せて頂いたんですけども、あれはオーストラリアですか砂漠で親子三人の人達がね、毎日大きなトカゲを追って生活をしておる。それを食べる為に親子三人でトカゲを追って行きよる所がテレビで写っておった。
 それが日々の食糧になる、だから雨ども降るともう食べんどらんならん、夜になりゃ砂を着て寝るこう砂を掘ってからその中に寝る、小さい十位の子供も一緒に親子三人で、でもうトカゲを遠い所まで追いかけて行きます、トカゲも捕らえられちゃいけんと一生懸命逃げます、けどそれ前に是がこの人達の食糧になんだと聞いとりますからね、もう一生懸命御祈念させて貰った、それを取らん事には今日は食べる事が出来んもん。
 見せて頂きながら、一生懸命御祈念させてもらった、そうゆう様にですね、そうゆう生活をしておる人達の上の事迄も今頃は祈らなければおられない、どうぞ世界中の隅々の氏子までが、兎に角、立ち行くおかげを頂かし下されと、言う願いが非常に強うなってきた、ね。勿論日本の事は言うに及ばずですね、最近なんかは、もう世界中の、総氏子の精霊の事迄も、祈らなければおられなくなってきた。
 精霊と言うのは霊さま、どれだけあるやら分からん実を言うたら、その精霊達の立ち行きの事迄、もうこれだけは祈らなければおられん、最近は言うなら私の祈りと言うか、私の祈りが本当に大きくなってきた、自分でも是はたまがる位です。どうしてこの様な事がこの様に実感をもって御祈念が出来るだろうか。それは皆さんも朝晩御祈念なさる。朝晩拝詞を奏上されますとです世界真の平和、世界総氏子の身の上安全を祈っておられます、祈っておられたら、所謂唱えておられます。
 だからそれが唱えるだけではいけんのです、それを本当に祈らなければおられない世の中だから、皆さん私はこう言う祈りが最近出来るようになって合楽も大きくなって来たように思う、言う話しをさして頂いた。したら皆さんどうでも大きなおかげを頂きたいならばです、本当に自分だけの事ではない、自分一家の事だけではない、せめて隣近所の事位は、本気で祈られる、親戚中の事が本気に祈られる、自分の知っておる限りの人達は本気で祈らせてもらわなければおられないと言う様にです。
 私はそれは中身のになる、所の祈りを出来れる、私は信心を身に付けて行かなければいけない。まあそこん所も今日の御理解で言うとです、世界の隅々の人達が合楽の大坪と云う人が、私達の事を祈ってくれておると言う事は誰れも知りません、しかも一生懸命祈ってくれておる事はだあれも、言わば神様だけが聞いてござるだけの事。ね。ここで仰せられる信心すればと言う信心とは、眼に見える所ばかりを大切にするのじゃなくて、眼に見えないところも、大切にすると言うのがお道の信心。
 言うなら神様が見ておいで神様が聞いてござると言う事をです。信じる事だから影も日なたもないだけの、いやむしろ影の方をかえって大事にすると言うような、信心も段々出来てくるのです、そう言う信心ができてなければいけません、例えば今のを厳密に言うてです 世界中の事を祈らせて頂いておる、これはもう本当に実感ですけれども そんならこれを例えば三代金光様のおっしゃられたですねえ。
 ある時に宗教新聞の記者が、金光様に一問一答をお願いした、『金光様あなたは毎日長い長い御祈念をなさいますが、御祈念の内容はどう言う事ですか』とお伺いした。新聞記者がね『世界総氏子の身の上安全を願います』とおっしやった。『それは金光様あまりに大きい、ま少し具体的にお話しを下さい』と申し上げた。そしたら、金光さまは『大は小をかなえますから』とおっしやった、もうこれには新聞記者も一言もなかった、と言う事です。ね。
 例えば合楽の人が合楽の事をお願いすると致しましょうか、そんなら合楽の人が合楽中の事をお願いしたらその合楽の中に自分もあれば自分の家もあると言う事なんです。どうでしょうか皆さん北野の人達は北野中の事を願いよんなさるでしょうか、久留米の方達は久留米中の事を願いよんなさるでしょうか、願いなさいじゃない、願わなければおられない心を育てなさいと言う事。
 自分の好きな人の事は祈るけれども、嫌いな人の事は祈らんといった事ではない、もうむしろ私は人間ですから好き嫌いがある、だからその嫌いな人を大事にすると言う話しを昨日したんです。丁度日曜ですから吉井の杉さんのお婆ちゃんが参って来て、そしたらお婆ちゃんが言われるとですもん「親先生私は親先生に好かれとらんでしょう」と言いなさいますもん「なしですか」と言うたら「参って来るたんびにあんまり大事にされるけんで」と私が嫌いなものを大事にすると言うて大笑いをした事ですけれどもね。
 本当に自分が嫌いと思う様な言うならば人、言うならば眼に見えないない所を却って大事にする、好きな人は大抵ろくそにしとたっちや大抵大事にしますからね、ですからそう言う私は信心がです。眼に見える所ばかりを大事にすると言うのじゃなくて、眼に見えない所を大事にすると言う事はそう言う事じゃないだろうか。祈りの内容と言うものは誰も知らない、私はあんたの事を願ごうてやりよるばいなんて事も言わない、けれども誰も知らんけれども世界総氏子の事が世界国々の隅々の人達の事の上に迄です。
 立ち行きのおかげを頂かせてください、と言う祈り願いと言うものがです、段々こう自分で出来てきた、出来てきたら確かに合楽の教会が大きくなってきた様に思うがね今頃、と言うて文男さんに話した事です。大きなおかげ大きなおかげと言うて大きなおかげが頂けんはず、自分の祈りがあまりに小さい、それでもそんなら厳密に言えばです 三代金光様が仰る様に大は小をかなえますかと。
 仰る程しの祈りでは信心ではない事です思います。昨日豊美達が帰りますのに皆さん見送って下さった、それから自動車が向こうへ行きますから皆さん御祈念をなさいます、お願いさせて頂いとりましたら、御神眼にその日本の地図を頂くのです。それが何となすびの姿、だから私が祈るところ日本国中の覆われものならばです、例えば豊美達がここから金光迄帰りま、 その事は大丈夫。
 なすびと言う事は安心と言うお知らせですもんね、ここでは丁度なすびがこうして日本の地図に見えるんで、そして私は思った、そんなら私が朝鮮とか支那とか例えばそんなら行くと致しましょうかけれどもそこ迄はまだきかない、私の祈りはまだ届かない、世界のすみずみの事迄祈りよると言うてもです、実際は日本国中位な所のが切実であると言うような意味ではなかろうか。
 今日の御理解から言うとそう言う事になる。だからもっともっとその祈りの内容と言うものがです大は小をかなえる程しの、例えば祈りの内容になって来る時に、世界中のどこにやらして頂いても、これはね例えば今頃、支那朝鮮又は欧米諸国当たりに旅行なさる方があります、お届けをしておいでられます、だからもうそげん所はきかんと言う意味じゃないですよね。言うならばまだ私の祈りが、まあそう言う程度だと言う表現であると思うのですよ、事実又おかげを受けて皆んな帰って来とりますから。ね。
 お互い言うなら誰も知らんけれども眼に見えないような中にです、その祈りが自分ながら有難いと思える程しに、眼には見えない誰も知ってはいないけれども、神様だけが御承知の世界におるので御座いますから、自分でこう言ういわば素晴らしい事が祈れておる願えておると言うような願いにならなければです。彼もおかげであった此れもおかげであったと了解るような信心は育たないと思う。
 彼もおかげであった 此れもおかげであったと言う事はです、一切がおかげであると言う、なる程そう言う信心が出来たらここに仰る様に、そう言う様に分かりよい了解が出来る様になるとです。解る様になると真実の信者じゃと仰る、此処で本当と云う事を信じた、だから本当のおかげ、真実のおかげが受けられる様になるのです、そこでそんなら信者のお育てと言う事を申し上げますけれどもです、信心のお育てを頂かせて頂いてです、段々五年が十年過たして頂く内にです、信心が育って行かなければいけません。
 年数だけはくっておるけれども、信心が育っていないとするならです、いつ迄過っても、それは本当の信者と言う事にならない、彼もおかげであった、此れもおかげであったと、解るやうになるには、なかなかなれない、彼もおかげであった、此れもおかげであったと解るような信心それには、信心すればとここに仰る信心、眼に見えるおかげより、眼に見えぬおかげがの方が多いと、仰せられる信心、それは金光様の、信心しておれば、そうかと言う事ではない。
 信心すればと言う信心をするから眼に見えるおかげより眼に見えないおかげが、大きくなってくるのです。信心すればとは、どう言う事かと言うと、眼に見える所ばかりを大切にして眼に見えない所を粗末にするからおかげになりませんと言う。四神様の御教がそこにはっきり分かってくる訳です。先ず私共がです神様が見通し神様が聞き通しの世界に私共はおかげを受けておると言う事を本当に信じれたら、本当に眼に見えない所を愈々大切にしなければおられなくなってくるのです。
神様を信じておると言うてもです、神様が見ておいで聞いておいでである どこにおってもそれがそうであると言う事が信じられないならば、それは今日ここで言う信心とは言えません。愈々そう言う眼に見えない所を大切にさせてもらえれる、信心にならしてもらい中でも、例えば誰も知らないけれども、私の祈りと言うものが、段々育って言うならば大きくなっていく中味のこもった。
 言わば祈りが自分の事を願う時のような気持でそんなら他人の事が祈れるように、なって来ると言う事、信心の成長に従ってそれが実感として。それなら世界真の平和と言う事が本当に祈れるように。もう絶対私はおかげは大きくなって来ると思うのです、大きなおかげを頂きたいなら大きな祈りが本当に出来るようなおかげを頂かなければならんと言う事を今日は聞いて頂きました。
   どうぞ。